
小さい頃、公園で大きめの枝を拾い集めては自分の基地に積み上げていた。
ザラザラトゲトゲした枝もあればやけにツルリとした肌の枝もあって、それぞれに武器として名前を付けるだけの特徴を持っていて、飽きずに何日も没頭したのを覚えている。
現代の洗練された木工玩具とは比較にならないようなコレクションではあったけれど、当時の自分にとってはその全てが宝物で、
それから何十年経った今でも、木の温もりを感じながら時々懐かしく思い出したりしている。
小さい頃、公園で大きめの枝を拾い集めては自分の基地に積み上げていた。
ザラザラトゲトゲした枝もあればやけにツルリとした肌の枝もあって、それぞれに武器として名前を付けるだけの特徴を持っていて、飽きずに何日も没頭したのを覚えている。
現代の洗練された木工玩具とは比較にならないようなコレクションではあったけれど、当時の自分にとってはその全てが宝物で、
それから何十年経った今でも、木の温もりを感じながら時々懐かしく思い出したりしている。
自分がまだ小さな子どもだった頃に、何か乗りものを見たり乗ったりして驚いたという記憶はあまりない。
新幹線も割と丸っこいデザインをしていたような気がするし、車だって人を威圧するような大きさではなくて
いかにもお父さんが休日を家族と楽しむための、というような控えめなものが多かったように思う。
近頃の乗りものはスピードもパワーも収容力も格段にアップしていて、今にもロボットに変形したり合体したりしそうな (実際にアニメではそういうシーンも) デザインも見かける。
今を生きている子ども達は今の世界に存在しているモノから刺激を受けて育っていくのだとしたら、これからどんな世界を創っていってくれるのだろう。
カメラが欲しい、という息子と電器屋さんへ。
チェキでも買ってあげようかと思ってフラリと寄ってみたはいいけれど、
あれこれ手に取ってみるうちにこちらも欲しくなってきたりして。
いつの頃からか陶器とか磁器とかのツルンとした感じに惹かれるようになった。
眺めていると、その滑らかな表面に触れてみたいという衝動に駆られる。
そうした欲求の全てが叶えられるものではないということは勿論わかっているけれど、そういう欲が身体のどこからか湧いてくるということ自体、何となく嬉しいような気もしてくる。
長い間リビング用のティッシュケースを探した末に、
「そもそも木やプラスチックの箱に拘る必要もないのだ」ということに漸く気付いた。
以前フォルクスワーゲンのピックアップトラックのミニカーを買ったお店を再訪してみると、そこで運命の出会いが。
息子と父は言葉も交わさずにレジへ走ることになった。
それにしても、ヨーロッパ車のデザインが我々のような異文化で育った民族をも魅了するっていうこと自体なかなか凄いことだよな、なんてあらためて感心してしまった。
昔から『プランクトン』という生き物のような、そうじゃないような、不思議な響きの言葉に惹かれていて
用事があって訪れた図書館で偶然見つけた図鑑ではこんな素敵な曼荼羅 (マンダラ) と出会ってしまった。
海のなかの世界は大きく、そして深い。
子どもが吸い込まれるように壁に近付いていったのでなにかと思えば、
そこにはカラフルな森。
あんな場所にもクジラは馴染んでしまうのかと妙に感心したりして。
時間とアイデアとブロックさえあれば何でもできてしまうのかもしれない。
❺のザクザクした感じも好き。
家にいる時間が増えたから、というのがキッカケだと思うけれど
このところ「椅子」に興味がある。
自分にとっての良い椅子は、目を楽しませてくれて、かつ、重力の感じ方を変えてくれるもの、と定義している。
黄色いのは、うーん…羊?
それで、赤いのは…ナマハゲ?
どっちも良くわからないけど何となく好き。