
夏の疲れが襲ってくる前に体内に香辛料をどさどさ投入すべくカレー屋さんに飛び込む。
基本的には本格的なカレーにはナンがいいと思っているのだけれど、時々無性にサフランライスが食べたくなる。
サフラン自体も香辛料の一種と聞いて今さらながら納得。
受け皿としてのコメの偉大さを感じつつ、本場のカレーも食べてみたいなと、更なる欲求が生まれる。
夏の疲れが襲ってくる前に体内に香辛料をどさどさ投入すべくカレー屋さんに飛び込む。
基本的には本格的なカレーにはナンがいいと思っているのだけれど、時々無性にサフランライスが食べたくなる。
サフラン自体も香辛料の一種と聞いて今さらながら納得。
受け皿としてのコメの偉大さを感じつつ、本場のカレーも食べてみたいなと、更なる欲求が生まれる。
今日はもう何も食べなくてもいいや
というくらい蒸し暑い日でも蕎麦は食べられる。
そこに柚子や酢橘があれば尚よし◎
僕は果物のかわの苦味とか食感も好きなので、夏はなんとなくこれ一杯で満ち足りた気分になる。
いつの頃からか陶器とか磁器とかのツルンとした感じに惹かれるようになった。
眺めていると、その滑らかな表面に触れてみたいという衝動に駆られる。
そうした欲求の全てが叶えられるものではないということは勿論わかっているけれど、そういう欲が身体のどこからか湧いてくるということ自体、何となく嬉しいような気もしてくる。
最近なぜか無性にトウファが食べたくなる。新発見の甘味 (糖) に脳が喜んでいるのだろうか。
そして、豆花の世界には僕がまだ開けたことのない色々な扉があるらしい。
マンゴーアイスにドラゴンフルーツ、西瓜。。
夏限定なんて言わず、秋も冬も季節ごとの果物で僕らを楽しませて欲しい。
- 以来、人類は大半の時間を、あちこち動き回ったり、狩りと採集を行ったり、遊牧民として生活したりしてきた。
村を作って定住するという考えは新たな発明だった。
それを思いついたのは一万三千年前のことであり、それ以降、私たちは放浪生活をやめ、穀物を栽培するようになった。
だから今の私たちが時々、移動不足を幻肢痛のように感じて、遊牧生活に憧れるのも不思議ではない。
遊牧生活の記憶は旅行癖にだけ見られるわけでもない。
私たちは動物の背に乗って移動すると、心が落ち着き安心するのだ-
ペール・アンデション / 「ここではない、どこか」という憧れ
遥かな昔の自分の祖先が遊牧的な民であったかどうかは別として、人類としての共通の記憶みたいなものがあるとすれば
たしかに我々は、気の遠くなるような長い時間をかけて、この広大な世界を他の動物たちと共に彷徨い歩いてきたんだなとあらためて思う。
いつかどこかで野生のウマやゾウに出会うことがあれば、そんなことをまた思い出すかもしれない。
「好物はなんですか」と問われて最初に浮かぶものの一つが鰻で、
季節を問わずによく食べるのだけれど
やっぱり夏になるとその頻度が格段にあがる。
普段大好きな揚げ物もこの暑さではと見送り、素麺ばかりでは夏を乗り切れなさそうだし…
となると大体「今日は特別(?)に鰻にしよう」と家庭内の意見が一致する。
あの甘塩っぱいタレにホクホクした鰻の食感。その下には熱々のご飯。
そうそう、山椒もたっぷりと。。
そんなことを書きながら、また猛烈にうなぎが食べたくなる日も近い気がしている。
古い建物を訪れると、日々の過ごし方、暮らし方について先人の知恵を借りることができるような気がしてくる。
クーラーも扇風機もランプも無い時代、人々はその日その日の暑さ寒さや光を感じ、小さな部屋に設られた花や絵を眺めながら季節を味わったのだろうか。
でも考えてみれば、どの時代のどの階層の人たちも本当は目の前のことに精一杯で、
こうしてぼんやりと何かを眺めて暮らすなんてことはできなかったのかもしれない。
なんてことを竹の描かれた襖絵を眺めながら。
- アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。
町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。
春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のかすみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあなを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。
丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見えつかくれつ音もなく駆けぬけた。 -
レイチェル・カーソン / 沈黙の春 – 明日のための寓話
単に年齢的なものなのか、コロナ禍を経験した人類の一員としての危機意識がそうさせるのかはわからないけれど
我々がこれから失おうとしているものがどういうものなのか、ということについて時々考えるようになった。
とうの昔に失って、もはや取り戻すことができないものについても。