
どの地域の、どの農園にどういうコーヒーの木があって、どういう味がするのかというのは一消費者として浪漫があるなと思うし、
定期的に違った珈琲豆を仕入れてきてコポコポ淹れるだけで日常を彩り豊かにしてくれる気がする。
どの地域の、どの農園にどういうコーヒーの木があって、どういう味がするのかというのは一消費者として浪漫があるなと思うし、
定期的に違った珈琲豆を仕入れてきてコポコポ淹れるだけで日常を彩り豊かにしてくれる気がする。
- 畑の土は黒く、麦や葱は青く、空はすみわたって、諸君を待っている -
岸田劉生 / 新年に際して画壇に
- 針を以て穿たれた穴は必ずしも深くないけれど、浅い感じは持たない。
そして、その鋭い道はスーッと深いところへとどく道を暗示している。-
岸田劉生 / デカダンスの考察
子どもたちにとって、いつか帰ることができる場所を確保しておいてあげることは大切なことなんだろうな。
いや、それは子どもたちだけじゃなくて、僕たちオトナにとってもそうかもしれない。
チーズケーキは元々好きなんだけど、
こんがりした色がまた美味しそうに思えたりして。
昔から『プランクトン』という生き物のような、そうじゃないような、不思議な響きの言葉に惹かれていて
用事があって訪れた図書館で偶然見つけた図鑑ではこんな素敵な曼荼羅 (マンダラ) と出会ってしまった。
海のなかの世界は大きく、そして深い。
- 芸術家は、聴衆に向かいあうときの自分の役割の大きさを重荷に感じ、傷つきやすくなっている。
この職業で成功したり、ある程度有名になったからといって、探究すべきことはもうないなどと思ってしまうようなら、それは誤りである。
人はすべてをコントロールしきれるものではなく、そのことはステージの上でも同様だ -
ジャン・ファシナ 『若いピアニストへの手紙』
小さい頃からおやつを自分で選ぶことに無上の喜びを感じていた。
僕の通った小学校の裏にも駄菓子屋があったから、お小遣いの残りの100円玉を握りしめて駄菓子屋のおばあちゃんと挨拶を交わし、
一個10円とか20円のお菓子をいくつか買ってはお店の脇のベンチで食べた。
自転車で隣町の小学校の裏の駄菓子屋を覗いたときなんかは「俺らの駄菓子屋の方が色んなのが並んでるぜ」なんて密かに自慢に思ったりした。
そんな僕の (ではないけど) 駄菓子屋も隣町の駄菓子屋も既に無く、心踊る懐かしのお菓子たちはスーパーやコンビニの一角でおじさん達の目にとまるのを静かに待っている。
なんて、くだらないことを考えながら『おかしのまちおか』で大人買いしたチョコバットを妻に隠れてモソモソ食べている。
ちょっと調べものがあり、図書館へ。
途中、クリムトの画集が目に入ったので手に取る。こんな絵も描いていたのだっけ、とパラパラ、パラパラ。
お、ゴーギャンの画集もあるじゃないか、パラパラ。
待て待てあちらにはアンリ・ルソーの画集…。
図書館でのセレンディピティは人生の愉しみのひとつとあらためて感心しつつ、
司書の方々の感染対策の負担を増やさないよう、貸出処理を済ませて足早に去る。
コロナで世界が一変し、ウィルスとの戦いはまだまだこれからという状況ではあるけれど
テイクアウトに対応してもらえるお店が増えたおかげで色々な食べものとの出会いがあった。
以前なら「やっぱりお店で食べないと」と思っていたところでも気軽に持ち帰りを注文できるように。
『オムそば』なるものは、少し冷めても、温め直しても美味しい。