
-私が二十代半ばでユーラシアへの長い旅に出たとき、まだヴェトナム戦争は終結していなかった。
サイゴンは、依然として大いなる混沌の中で深い退廃を抱え込んでいた。
熟れ、爛れ、汚れ、乱れ、しかし同時に、輝き、弾け、溢れ、満たしてくれる街としてのサイゴンは存在していたのだ。
多少の危険を覚悟すれば、通過地点のバンコクからサイゴンへ抜けていく方法がないわけではなかった。
しかし、そのときの私には、内部にいまほどの痛切さでサイゴンが棲んでいなかったのだ。
気がついたときには、サイゴンはこの世から消え去り、ホーチミン市と名前を変えていた-
沢木耕太郎 『水と緑と光と』
いま、この瞬間にも何かが失われていっている。
遠い異国の、遠い昔に地球上から消えてしまったアノ街を訪れてみたかったなという憧憬の念みたいなものはもちろん僕にもあるけれど
それよりはむしろ、いまは亡き祖父や祖母が生きた時代のこの街の空気や景色を一度見てみたいなと、時折り思ったりもする。
半世紀。
ごく最近のような、遥か大昔のような。