Lectio

ちょうどこんな晩だったな

-「何が」と際どい声を出して聞いた。

「何がって、知ってるじゃないか」と子供は嘲るように答えた。

するとなんだか知ってるような気がしだしたけれども判然 (はっきり) とは分らない。

ただこんな晩であったように思える。

そうしてもう少し行けば分るように思える。

分っては大変だから、分らないうちに早く捨ててしまって、安心しなくってはならないように思える。自分はますます足を早めた。

雨はさっきから降っている-

夏目漱石 / 夢十夜 『第三夜』

Lectio

ゴッホとテオ

-ゴッホの墓に詣でたのは厳冬のある日であった。

空は雲に覆れ、枯木は樹氷をつけ、地は一面の雪であった。

雪の中から、ゴッホ兄弟の名を活字体ではっきり刻した、

何んの装飾も加えない、将棋の駒のような形の石が、二つ並んで出ていた-

小林秀雄 『ゴッホの墓』