このところ家の中をもっと居心地のいいものにしようと目論んでいて、少しずつ気に入った家具なんかを集めている。
手をつけ始めると面白いもので、ベッド周りひとつとってもアレコレやってみたくなる。
通り掛かりの店先に小鳥の飾り付け。
そういえば鳥の巣の居心地って、たとえば雛たちにとってはどんなものなんだろうか。
このところ家の中をもっと居心地のいいものにしようと目論んでいて、少しずつ気に入った家具なんかを集めている。
手をつけ始めると面白いもので、ベッド周りひとつとってもアレコレやってみたくなる。
通り掛かりの店先に小鳥の飾り付け。
そういえば鳥の巣の居心地って、たとえば雛たちにとってはどんなものなんだろうか。
-私たちは自分でこれから、それを考えてみなければならない。
たとえばここから東の方へ何十里、または西へ南へ北へ何十里、そこにはどんな村があり、どういう社会があるのか、あの山脈の向こう側には、いかなる生活が営まれているのか-
柳田国男 『旅と文章と人生』
ひさしぶりにガルシア・マルケスの『百年の孤独』が読みたくなった。
僕が昔から知りたい知りたいと焦がれてきたのは、人々がどういうところに棲んで、何を大事にして暮らしているか、ということなんだなと最近気付いた。
「どうしたら人生たのしくなりますかね」
酒席とかで後輩なんかからこうした “軽そうで重い” 質問をされることがちょこちょこある。
1年や2年早く生まれたくらいの立場で大したアドバイスもないのだけど、「とりあえず今日一日を愉しく過ごしてみたら」と返すことにしている。
たとえば来週の土曜日の楽しみにとっておいてあるようなことも、可能であれば「今日」やってしまってもいいと思っている。
来週のお楽しみを今日やると今日が楽しくなるし、来週のその日は別の楽しそうなことに充てられる。
僕は約束事とかも好きじゃないし、大好きなミートソースの粉チーズが無かったときみたいに、楽しみを悪天候やら何やらで取り上げられたりすることにも耐えられそうにない。
今日一日が楽しければ明日もまたそれなりに楽しい一日が来ると僕は思っている。
ベッドに入って「あー楽しかった」と思いながらグッスリ寝た翌日の朝に、不幸な顔なんて僕はできない。
-奈良の都を平城とも書くのを見て、ナラは当時の輸入の漢語であるように論ぜられた学者もあったがそれは誤りであろうと思う。
山腹の傾斜の比較的ゆるやかなる地、東国にては何の平(たいら)といい、九州南部ではハエと呼ぶ地形を、中国・四国ではすべて”ナル”といっている-
柳田国男 『地名考説』
たとえばその土地に棲みついた記憶みたいなものがあったとして、この百年ほどの短い間に人口が増え(あるいは減り)、古い地名は変わり、多くのビルが建って景観や地形そのものが変わってしまったことで、そういったものの多くは失われたしまったのだろうか。
息子と”チキュウ”の話をしてるときに「そういえば地球って球体じゃなくて楕円体なんじゃなかったっけ」と思ったけど、話がややこしくなるのでディテールの説明はやめておいた。
小さな頃に、公園の小山でソリ滑りをして遊んだのを思い出した。
トロッコみたいなものがあったらもっと楽しかったのかもしれない。
-ほそぼそと ほしがれひをやくにほひがする
ふるさとのさびしいひるめし時だ
がらんとしたしろい街道を
山の雪売りが ひとりあるいてゐる-
田中冬二 / 青い夜道 『ふるさとにて』
もはや災害時 (真っ最中はもちろん、これから大きな台風来るぞみたいなときも) には欠かせないインフラになったように、Twitterは社会の善意を緩やかに繋げることにもひと役買っていると思う。
Twitterがあるおかげで、少なくとも一昔前よりは「助けて」とか「なんとかしてあげようよ」みたいなことも割と言いやすい社会にはなってきた気がする。
ミクシィか何かの「ココをクリックすると1円がどこそこへ寄付されます」みたいなバナーをポチッとしていた頃には今みたいなレベルのネット社会がやって来るとは想像もしていなかったけれど、ソフトな善意が社会を動かすような時代になるといい。
コンビニなんかで見かける旧式の募金箱も、財布の小銭入れがパンパンになってイライラするような人はゴソッと募金してしまえばいいわけだし、みんなの意識さえ高まれば今後も割と有効な集金システムであり続けるんじゃないかと思っている。
僕は自分のことを”朝食は米”派なんだと長いこと思っていたのだけれど、このところパン派になってきている。
いや、考えてみれば朝に米を食べるのだって妻と出会ってから根付いた習慣であって、その前はそれ程こだわりなく食べていたような気もする。
実家にいるときも意味もなく餅ばかり食べていた時期もあるし、毎日朝からシーチキン巻きを食べていた時期もある。
前にパン派を名乗っていたのはいつだったかな。急にピーナッツバターにハマったのがキッカケだったような気がする。
小さな頃から”地球の裏側”とか”地球の反対側”とかという表現が好きで、ブラジルとかアルゼンチンとかチリとか、南米諸国には勝手な憧れがある。
そこには僕たちのクニとは全く違う生態系がひろがっていて、色とりどりのイキモノがそれぞれの暮らしをしていて、人々は陽気でおまけに良質のコーヒー豆なんかも獲れて…とか。
雑誌の挿し絵をパラパラしながらまたボーっとしてたら息子が興奮気味に抱きついてくる。
ヤドクガエルみたいな鮮やかなブルーは彼のお気に入りの色なのだ。
近所のアトリエに遊びに行ってきた。
ひさしぶりに、紙を机いっぱいに拡げて絵の具を垂らしたりローラーでコロコロしたりテントみたいなものを拵えたりして、身体をつかって遊んだ。
こういう、目的があるようでないような時間って、けっこう贅沢なものだなと思ったりした。